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アイデンティティー
忙しくしているとつい「考えること」から離れがちだが、ここ数日、それでも暇があれば考えている。
よく「アイデンティティーとは?」と言うけれど、結局のところ、それってどんなもんなんだ?、と。

広辞苑には
「人格における存在証明または同一性。ある人の一貫性が時間的・空間的に成り立ち、それが他者や共同体からも認められていること。自己の存在証明。自己同一性。同一性。」
とあり、英英辞典をめくれば、同一性の意と共に
「the qualities and attitudes a person or group of people have that make them different from other people(他者との区別・相違点となる、ある人やグループの持つ資質や姿勢).」
とある。
同様の意の解釈にも、「他者や共同体から認められることが自己の存在証明となり得る」日本人と、「他者との違い=アイデンティティー」となる欧米人の”らしさ”が読み取れるようで興味深い。
もちろん、日本語でも「独自性」と訳したりするけれど。

アイデンティティーが、自分以外の誰かと関わる中で見出せるものである、ということは確かだと思う。
海外で、「ニホンジン以外の人たち」に囲まれ、「ニホンジン」のアイデンティティーを背負わされることで、初めて気が付くことも多々ある。

二十歳を迎えた頃、ある日何故か痛烈に、「人は生かされている」と感じたのを覚えている。
何度も何度も口にして来たことだから、もし古い友人たちなどがここを見ていたら「あぁ、またか」と言われそうだけれど、私の中には人間社会というもののイメージが一つある。
砂の小山に小枝のような、小さな木の棒が立っている。
その棒は私自身であり、砂山は私を取り巻く様々な環境、そして人々である。
砂の一粒一粒は互いを支え合い、最終的に私である頼りないその小枝を立たせてくれている。
私は一人で「立っている」のではなく「立たせてもらっている」、「私も他の人を支える砂の一粒でありたい」などと思いながら、ちょっとした興奮を覚えたりもしたものだった。
(自分がそのように成長して来られたかを思うと、大いに不安ではあるが・・・)
当時特別な出逢いがあったわけでも、何のきっかけがあったわけでもなく、今でも何であんな気持ちになったのかさっぱり分からないのだけれど。

人は自然と、他者と己を比較する中で自己を把握し生きているように思う。
そしてまた、他者の存在なしで己の存在を確認することは難い。
紙に無造作に引かれた一本の線であっても、その背景なしでは存在することが不可能なように。
私があの日、ふと心に描いた小枝と砂山の関係は、まさに「What's "IDENTITY"?」を模型で解説するようなものだったのではないか、と、10年経って今更気付く。
この発見もまた、私のアイデンティティーになっていくのだろうか。

何だか話がこんがらがって来たけども。

山本文緒氏の「プラナリア」で、主人公は乳癌であることを自らのアイデンティティーなのだ、と言った。
コンプレックスが自身の存在意義、証明になることは多い。
その負の要素から学習することや、それが独自性となることも多いからだ。
他者との相違点、自らの弱点に学ぶこと・発見すること・・・
これだけツラツラと書き連ねても、何となく分かった気になっても、未だ腑に落ちない部分もある。
私自身のアイデンティティー、それはこの飽くなき探求心(=好奇心)なのかも知れない。
by linglong | 2004-10-19 14:59 | 其他
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英国生まれ、東京育ち。前世は台湾人(?)。十数年前にチャイニーズポップスにハマり、台北に留学。その後、米・シアトル~NYCへ渡りエンタ関係のビジネスを学ぶ。現在、0歳児育て満喫中。

by linglong